先に武を捨てたのは私なんだ。

降りしきる雨が鬱陶しいほどに私の頬を叩き、私の涙を覆い隠す。私は泣いているのに泣いていないように装われて、悔しいんだか悲しいんだかよくわからない中途半端なところでぶらぶらとうごめいている。いまや私の目の前なんて色も無いくらい真白で、叩きつける雨粒の大きさや激しさで視界が真白だったのだとしても、でもそれじゃない理由で真白な気がした。
もし私が言葉を吐くとしたら、それはさようなら、なのだろうか。それともごめんね、なのだろうか。ありがとう?好きだった、ううん、今も好きだよ。
そんな言葉を言っていい権利など私は持ち合わせていないから、泣きながら私はそれを飲み込む。飲み込む。酸性の強い雨粒が私の唇のわずかな隙間から入り込んでとろとろと食道を通って胃に落ちていく。
雨音が武の歌っていたJポップのようで、なぜか笑えた。リズムを取りながら、そしてどこかあざ笑うかのように、サアサアと雨が降り続けては私を叩きつけて、私を叱咤するようで、ああやっぱり武、怒ってるの?私はひとり呟く。
武は優しいからいつまでも私のことを一途に思っていてくれたのに、手を離したのは私。武を拒絶したのは私。待っててくれたそのことを、否定して拒絶したのは私。
そっぽむいて武を見なかったのは私。嘘をついて武を突き放したのは私。(さようなら)言葉が出てこない。私の後悔なんてただひとつ。武を捨ててしまったこと。卑怯だと、自分でもわかってる。

理由が無かったと言っても嘘になる。武は私を好きすぎるあまりに、私から離れようとしなかったから。私の命を護ると、自分の命を安売りしていたから。私の我儘を聞きすぎたから。なにもかも終わって、そして私が突き放して、それでも笑ったから。
あふれる不満も何もかも、根底を探れば武に甘えていたということに帰結する。私は武の優しさを利用して、利用して、そして突き放したのだ。なんて最低な女。こんな女にはこんな最後がお似合いだ。

私の視線のその先で、静かに笑いあう武と知らないきれいな女の人。(さようなら)私よりも幾分か細くて、幾分かか弱そうなその女の人の腰には、武の逞しい腕が添えられている。もう片方の腕は大きな傘を持っていて、その下でふたりは向かい合って見詰め合っていて。
女の人のつややかできれいな唇が上向いて、美しい笑顔をつくった。武の唇がそれに近づいて、そして触れる。仲睦まじく歩調を合わせて歩くその様はまるでアダムとイヴみたいで、(さようなら)笑っちゃうね。私にはそんなの、ちっとも当てはまらなかったから。
武、と唇でかたどっても、声にはならなかった。声にならないその声に、気づく人なんてどこにもいない。雨が私を叩きつける。
どこか遠くでバタン、という音がして、私は心持ちゆっくりと首を傾けた。私の虚ろな視線の先にはきれいな色のコントラスト。「…ッ!何やってんだよ!」雨音に掻き消され、ようやく私の耳に入り込む程度の声。
私は微笑んで首をゆるやかに横に振った。なんでもないよと、言いたかった。隼人の持っている傘が私を雨から突き放す。サアサアと、少し遠ざかった雨音を耳に入れながら私はそっと瞼を伏せた。「、お前何やってんだよ」惨めな私を笑うかのように、跳ねた雨粒が頬を叩いた。

「…さよならをしてたの」

「は?」

隼人が、風邪を引くから早く車の中に入れ、と私の腕を引っ張る。傘の下から視線を向けると、相変わらずふたりは幸せそうに歩いていた。(さようなら)私の左目からすうっと涙が零れて、また跳ねた雨粒に叩きつけられる。(さようなら)記憶の中の穏やかな武の笑顔は、今もそこに存在していた。
もう振り向かないその背中に、私は何度もつぶやく。心の中で何度も何度も。さようなら、さようなら、さようなら。お礼を言っても言い尽くせない気がしたから、お別れの言葉を。さようなら。さようなら。隼人に引っ張られながらも視線はその広い背中から離せない。何度泣いても泣き足りない私のために、空も泣いてくれている気がした。

(さようなら武)

(さようなら)

まだ目を瞑ればよみがえる、誰にも見せない特別な笑顔。もう戻ってこないけれど、その笑顔は確かに存在していた。私の隣に存在していた。

は俺のいちばん、だから』

目を開ける。そこにはもう私の欲しい笑顔は無かった。私の望む笑顔は他の人へと。ああ私はもう終わったんだ、何もかも終わったんだね。ごめんねさようなら。
目を瞑れば甘い夢が待っているけれど、私はそれをしたらもう笑えない気がして目を開いて、歯を食いしばる。


幸せな夢が笑っていた。







さようなら


嗚呼